アナリストeyes
「VR元年」のその先に
研究員 高澤 宏允
先日、電車に乗っているとVRデバイスのヘッドセットを頭部に装着して座っている人を見かけた。きっとスマートフォンを装着して動画か何かを視聴していたのだろう。周囲の乗客が不思議な顔で様子をうかがっている光景にはちょっとした微笑ましさを覚えた。
2016年は「VR元年」と言われている。高性能な一般消費者向けのヘッドマウントディスプレイ型VRデバイスが相次いで発売され、主にゲーム分野で注目を集めた年だったからだ。「VR」がより身近なものに感じられる、その時が来たのだと伝えるために各メディアではこのように表現したのだろう。実際、現在のVRデバイスは非常に進化していて、20年以上前に一般消費者向けに発売されたデバイスとは比較にならないほどの新しい体験を身近で感じることができる。
進化したVRデバイス
現在の主なVRデバイスは、顔の向きに合わせて360度、上下左右に、現在自分が存在する空間とは異なる仮想空間が表示され、あたかもそこに自分が存在しているような感覚を味わうことができる。いわゆる“没入感”や“実在感”と表現されるこうした体験は、デバイス本体やサポート製品に搭載されているジャイロセンサーや加速度センサー、トラッキングセンサーなどによって正確に動きや位置、傾きなどが測定され、瞬時に映像として反映させることで可能となる。この映像への反映にタイムラグが生じないほど、人はより違和感なくバーチャルな世界を体感することができる。こうした技術はまだ途上にあるものの、デバイスメーカーやソフトウェアメーカーが競い合うように研究開発を行っており、様々な開発者向けカンファレンスやセミナーなどで成果を持ち寄り、知見やノウハウを蓄積しながら新しいデバイスやコンテンツの開発を積極的に行っている。デバイスやコンテンツは着実に進化を遂げており、幅広い消費者により良い体験を提供するための基礎が既に出来上がっている状況にあるといえる。
しかし、2016年の市場を見てみると、特に注目されていたゲーム分野も含めてそれほど盛り上がりは見られていないのだ。これには様々な理由が複合的に絡み合っているのだが、その中でも大きな要因と考えられることがいくつかある。
多くの課題を抱えるVR市場
一般消費者への広がりを阻害している主な要因としては、「プロモーションの難しさ」「人体への影響の懸念」、「デバイスを含めて製品が高価格」「ヒットコンテンツの不在」などが考えられる。
VRコンテンツは、デバイスを頭部に装着して試してもらわないとその良さが全く伝わらないため、マスに向けたプロモーションを展開することが非常に難しく、これについては各ソフトウェアメーカーも頭を悩ませている。人体への影響としては、立体視による眼への影響が懸念されているため、概ね13歳以下への使用を推奨しないことや、いわゆる「VR酔い」という乗り物酔いに似た症状を引き起こす場合がある。ハイエンドなVRデバイスは充分魅力的だが、製品価格が高すぎて一般消費者への広がりは現状ではなかなか期待できない。そして市場を牽引するようなヒットコンテンツが生れていないという現実がある。
ソフトウェアメーカーのVR担当者に話を聞いても、同様の意見が返ってくる。「この一年でVR対応PCの価格は半値になったけど、それでも15万円はかかる。それにデバイスで約10万円…。まだまだ一般向けとは言い難い」「VRの体験とゲーム性とのバランスが難しく、圧倒的に面白いというものはまだ市場に出ていない。今のところ、ヘッドセットを付けて体験している人を外側から観察している方が面白い」など、痛烈な揶揄にも聞こえるが、開発の現場に立って日夜研究を積み重ねている姿の裏返しのようにも聞こえる。
それでも進化は止まらない
VRデバイスを取り巻く市場環境は、まだ多くの課題を抱えてはいるが、VR技術の応用や様々な市場への広がりが期待されており、これからゆっくりと成長していく分野であろう。この期待感が更なる新しい技術の開発への原動力となっていることは間違いない。
既に疑似的に海外旅行を体験できるという実験的な取り組みや、VRに嗅覚・味覚・触覚を絡めたシステムの研究開発も行われている。これらが実用化されれば、社会に及ぼす影響は計り知れない。
現段階では、VR体験は “観る”から“観て触れる”という、感覚までもが疑似的に体験できるフェーズへと進化している。一般消費者向けの製品価格レベルで浸透するにはまだ先になるが、既に試作品としてシンポジウムで披露されているだけに、実用化されて誰でも体験できるようになることは想像に難くない。製品化するには課題も多くあるだろうが、そう遠くない未来にその時代はやってくる。
近い未来、VRデバイスを装着して通勤する姿が一般的になっているかもしれない。こう考えると、今は「ヘッドセットを付けて体験している人を外側から観察している方が面白い」かもしれないが、これもまた時代とともに“普通のこと”として認知され、社会に溶け込むように馴染んでいくのではないだろうか。