日本マーケットシェア事典2022年版巻頭言より
株式会社矢野経済研究所
代表取締役社長 水越 孝
ロシア、国際社会から離反。世界の分断が加速する
世界が新型コロナウイルスに覆われて2年、累計感染者数は4億3850万人に達し、596万人が犠牲となった(3月2日、米ジョンズ・ホプキンズ大学)。
外出規制、都市封鎖、国境を跨ぐ移動の制限は社会の様相を一変させた。IT化は社会のすべての領域で加速した。人類共通の敵の出現はSDGsへの社会的関心を否応なく高めた。今や企業活動の重要指標だ。在宅勤務が当然のように呼び掛けられる中、働き方改革は大きく進展した。
もちろん、変化が速まったことによる影響も小さくない。相次ぐ中小企業の廃業や解散は事業承継問題の前倒しである。運輸、宿泊、外食、レジャーなど、行動規制の影響をダイレクトに受けた業界のダメージも大きい。人口減少に伴って縮小してゆく数十年後の内需の実相が現出されたと言っていいだろう。そして、新たな変異株が依然として猛威を奮う。
しかしながら、ここへきて世界はようやく動き始めた。行動規制の解除は欧州が先行、徹底したゼロ・コロナ政策を堅持する中国などを例外としつつも世界は緩和に向けて動き出した。例によって日本は「状況を注視しつつ適切に対応する」との慎重姿勢を崩さないものの、入国制限の一部緩和に踏み切るなど、流れは軌を一にする。
そう、世界は徐々に開いてゆくはずだった。ところが、すべての前提は一挙に崩れた。2月24日、ロシアがウクライナに軍事侵攻、冷戦の終結以降、不安定ながらもかろうじて維持されてきた最後の一線は一方的に踏みにじられた。
ジャック・アタリは、「民主主義は集団にかかわる事柄を一人ひとりの個人の自由の行使を認めつつ集団で決定する仕組みである」と定義した。そして、「今や多くの分野で世界全体を対象とする決定でなければ実効性を持たないことが明らかである」としたうえで、「民主主義に潜む大きな危険は影響力のある少数派の離反である」と指摘した(「いま、目の前で起こっていることの意味について」、早川書房より)。
ここで言う民主主義を国際社会と言い換えるのは必ずしも適切ではないかもしれない。しかしながら、世界最大規模の軍事力という影響力を持った少数派、否、自国の集団にかかわる事柄をたった一人で決めてきた独裁者が国際社会に背を向けたことで、世界全体が抱える課題解決への道筋が一瞬にして閉ざされたことは間違いないだろう。
ロシア排除の中で問われる日系企業の企業倫理
欧米は直ちに対露経済制裁を発表、日本もこれに続く。政権幹部の資産凍結、査証の発給停止、輸出入の制限、そして、国際銀行間通信協会“SWIFT”からの排除が決定される。国際決済システムへの遮断のインパクトは大きい。ルーブルは急落、ロシア中央銀行は政策金利を9.5%から20%へ引き上げた。金融システムは実質的に崩れ始めたと言える。
現時点ではロシア軍に撤収の兆しはない。今後、エネルギー、食糧、希少金属をはじめ、世界は想定外のインフレと物資の供給不足に直面するだろう。サプライチェーンの分断、国際金融市場の混乱も避けられない。中国の動きも不確定要因だ。企業を取り巻く経営条件はもはや“それ以前”への回帰はない。世界はアフターコロナ戦略の全面的な見直しを迫られる。
侵攻から1週間、企業のロシア市場からの徹底表明が相次ぐ。英BPはロスネフチの全株売却を決定した。英シェル石油は「サハリン2」、米エクソンモービルも「サハリン1」事業から撤退する。ビザ、マスター、JCBはロシア銀行との取引を停止、アップル、ナイキ、イケアもロシア市場から消える。スポーツ、音楽、映画など、文化や娯楽でもロシア排除が広がる。
日本企業への影響も出始めた。自動車各社は日本からの輸出停止を決定、同時にロシア国内での生産停止の検討に入った。日本郵船、商船三井、川崎汽船が出資するコンテナ船事業も2月末での停止を発表した。ロシア企業との取引、ロシア国内での事業活動の縮小はすべての日系企業に避けられない。しかし、これまでのところ、事業の縮小や停止は物流の混乱、資材の高騰、送金の問題など、事業オペレーション上の問題が理由とされており、“積極的な撤退表明”の声は聞こえてこない。
ここ数年、日本でも先端技術の国外流出や海外資本による重要施設等周辺の不動産取得など、“経済安全保障”に関する議論が活発であった。想定相手は言うまでもなく中国である。背景には深刻な米中対立があり、人権問題もまたこの文脈において先鋭化されてきた。
そして、今やロシアもまた、少数民族への迫害が続く新疆ウイグル自治区と同様に非民主的なるもののアイコンとなった。
児童労働、環境破壊、人権抑圧への関与や加担は企業のガバナンスの問題として認識される。したがって、日系企業も、“止むを得ずの撤退”ではなく、対ロシア経済制裁への主体的な参画、言い換えれば、ウクライナに対する非人道的な行為に対する企業としての意思を表明することが求められよう。
民主国家は自らの理念から後退してはならない
昨年4月、経済同友会は経済安全保障に関して、“国家の安全保障と企業経営は一体”との提言を発した。その言葉の先にある究極の姿は“徹底した社会統制のもとでの軍民融合政策”である。もちろん、真意はそうではないだろう。とは言え強権的な者に対抗するための社会統制の強化は、強権的な国家を否定し続けてきた我々の内側に綻びを生じさせかねない。個人の生命、自由、人権が脅かされない社会、これが民主国家の存立要件であり、ここから後退し、彼らの側の論理に与すべきではない。
「暴力はそれを受ける人間を殉教者や英雄に高める」と書いたのはスーザン・ソンタグだ(「他者への苦痛のまなざし」、みすず書房より)。と同時に、暴力を振るう側にもたくさんの英雄が生まれるはずだ。彼らはそれぞれの側において賞賛され、一方で憎悪の対象となる。
いずれにせよ“英雄たち”の量産は御免である。まずは停戦だ。そのうえで世界の新たな関係づくりをはじめよう。
(2022年3月4日)