【日本語と英語の「損得」】入力にまつわる機会損失
パソコンなどに日本語を入力することが一般的になって以来二十数年間、ずっとその煩わしさに閉口してきた。タブレットやスマホの時代となると、ミスタイピングの頻度が高まるせいか、殊更にそう感じる。
筆者は日本語か英語でメールやメッセージを書くが、どちらか選べる相手であれば、英語を選ぶ。入力が圧倒的に早いからだ。感覚的には倍、もしくはそれ以上早いと思うこともある。
筆者が特段英語にたけているという論旨ではない。ひと通りの英語の読み書きはできるが、日本語の方が格段に身に付いている。それでも、英語の方が断然早い。英語の場合、基本的に次から次へと打ち込んでいくだけで済むからである。実に手離れが良い。
一方、日本語は「音読みで入力し、漢字変換し、必要に応じて音節を調節し、適切な結果を探す」という動作をせねばならない。
このややこしいプロセスが、一体どれだけの不利益をもたらしているのか推計してみたい。
日本のホワイトカラー人口は、およそ3千万人だという。各人が1日1時間の日本語入力をすると仮定しよう。年間の労働日数を240日とすると、日本のホワイトカラーは総じて、1年間に72億時間、仕事で日本語入力をしている勘定になる。
そのうち「日本語入力ならではのプロセス」に10%の時間を費やしていると仮定する(筆者の感覚では、これは極めて控えめな数字と感じる)。つまり、年間7.2億時間である。
日本の労働生産性は大体時間当たり4,300円程度であるから、これを掛け合わせた金額、すなわち3兆960億円が、漢字変換や音節調整などに費やしている機会損失と考えうる。
文科省関連の総予算が5兆数千億円、一般会計の税収が40兆~50兆円、消費税1%当たりの税収が約2兆円などと言われている中で、これは莫大な規模ではないだろうか。
加えて、日本語にまつわる「機会損失」は「入力プロセス」にとどまらない。「入力しづらい言語であるがゆえ、入力されない」という循環となるからである。つまり、入力される情報量が少なく、よって利用できる情報も少ない、という事態である。
例えば公共的な情報資産の象徴としてウィキペディアを取り上げてみよう。ちょっと古いデータだが、2009年12月時点で、英語の記事数は約314万、一方で日本語は64万にとどまる。実に5分の1しかない。
少ないのは記事数だけではない。平均的な記事の長さの統計などが見当たらず、記事の質まで評価するのは難しいが、例えば典型的な例として「GDP」というキーワードで英語と日本語の記事を比較してみよう。
英語版の「GDP」は印刷ページ数にして18ページ、日本語版は5ページにすぎない。量が多ければよいわけではないが、質がある程度一定であると仮定すれば、情報量は記事のサイズに比例することになる。
言語の選択は民族の尊厳に関わる一大事で、経済的な損得のみで判断すべきだと主張する意図はない。ただ、われわれがよって立つインフラのコストや効用に無関心であれば、グローバリゼーションの適者生存という無情な法則を前にして、あまりに危ういのではないだろうか。
2015年7月 取締役 矢野 元
株式会社共同通信社「Kyodo Weekly」2015年6月1日号掲載