改めて「ゆとり世代」を考える
「ゆとり教育」とは何だったのか。本来、「ゆとり教育」の意図するところは、学校生活において、ゆとりあるスケジュールの中で、自由な学びをしましょうとする教育であったと記憶している。詰め込み型の、受験対策型の学びではなく、欧米諸国の教育のように、色々な学びが選択できても良いのではないかという発想があったと思う。子供たちには当然向き不向きもあり、大学受験までまっしぐらの教育よりも、色々な選択がある方が望ましい。私自身この発想は決して間違っていないし、本来であれば、現在の学生に必要と言われているキャリア教育に通じるものがあったと思っている。
しかし、その評価としては、大半の人が失敗であったと考えているようである。何故か「ゆとり教育」は、競争をさせない、差別化しない、追い詰めない等、学校という環境でそのような教育方針がなされ、自由と放置を勘違いしたような教育が行われた結果とも言える。円周率は「3」、運動会の徒競走では本番前にタイムを計り、タイムが近い子供たち毎に競争させる等、本来の狙いとはかけ離れた教育実態があった。最大の欠点は深く考えること、物事を突き詰めることを止めさせてしまったことにあったかもしれない。結果論であるが、自由を与えられて、子供たちだけではなく教師も親もその狙いに対応できなかったということである。
その「ゆとり教育」を受けて育った世代は、一般的に現在の中・高校生から20代半ばの層を指して表現されているが、その世代が少しずつ社会に出始めている。就職難も重なって、大変厳しい状況に晒されているこの世代であるが、打たれ弱い、冒険をしない、競争心がないといった、弱点ばかりクローズアップされ、メディアに面白おかしく取り上げられた為に、すっかりと現在の評価に定着してしまっている。
しかし、本当に彼らはこの「ゆとり教育」によって失敗と言われる人間になってしまったのだろうか。彼らが育ってきた時期を改めて考えてみると、さらに大きな要因が見えてくる。失われた20年と呼ばれる時代に育ってきたこの世代は、ある意味被害者でもあろう。先行きの見えない時代では、人間誰しも無理をせず、自分を守ることを本能的に優先する。また日本が成長、拡大している雰囲気を味わえずに育ってきたため、当然良いものも知らない。彼らはまたお金を使わない世代とも言われる。当然である、よいものを知らないのだから。必要最低限、用を足すことができれば、必要以上のお金を払う必要性を感じないのである。このように考えてみると、この世代の性格は、「ゆとり教育」によって形成されたというよりも、間違いなくこの時代背景によって形成されているのである。
また彼らは、正にインターネット、携帯電話の普及・拡大と共に成長してきた世代でもある。つまりこの世代は物心付いた時には、既にインターネットや携帯電話が普通に存在し、この情報過多の時代に育ってきた世代である。他人と差別化されない学校教育と、失われた20年といわれる時代背景と、知りたいことがあれば、クリック・タッチ一回でわかってしまう社会現象の中で、現在の「ゆとり世代」は育ってきたのである。そして、あと10年もすれば、ものによってはこの世代がマーケットの中心となってくる。あと20年もすれば彼らが世の中の中心となってくる。
現在、私はいくつかの大学で、キャリア教育という形で学生達に接している。「ゆとり世代」の子供たちは本当にいい子である。素直な子も多い。また非常に真面目である。私たちは、こうした彼らの性格、その背景にあるものを熟考し、この世代が欲しいと思ってくれるような商品やサービスを作る、また供給していく必要がある。一方で、私たちに出来ることは、彼らによいものを教え、一生懸命考えることを教え、現在の素直さの上に、個性を発揮してくれるような人材に育てあげることである。彼らが少しでも早く社会を知り、理解し、「ゆとり世代」ならではの発想を持って、今の日本の閉塞感を打破して欲しいと願っていると同時に、如何に私たち世代が、色々な意味で恵まれた時代に育ってきたかを痛感している今日でもある。
2014年1月 理事研究員 池内 伸